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2009 年9月25日 高橋 俊二
アラビア沙漠の旅行

( Travels in Arabia Deserta. 1888)


 

ダウティのアラビア沙漠の旅行

 

「アラビア沙漠の旅行」

 

英国人詩人・作家・旅行家チャールズ モンタギュー ダウティ(Charles Montague Doughty, 1843 - 1926)

1888年出版

1921年ロンドンで再版

(Travels in Arabia Deserta, Publisher P.L. Warner, London 1921)

 

(注)*を付した項目は「使用用語一覧(語彙州)」を参照し、**を付した項目は「その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ 1-5 ヨーロッパ人による近代ジェッダの紹介」をご参照戴きたい。

 

ロンドン大学(London University)とケンブリッジ大学(Cambridge University)で学んだ後にダウティは広くヨーロッパ、エジプト、聖地(the Holy Land)、シリアを旅した。ダウティは北西アラビアへの旅を1876年にダマスカス(Damascus)から始め、巡礼達と共にメッカ方面へマダインサーレー(Mada’in Saleh)まで南へと進んだ。

 

(注)聖地(the Holy Land) 英語では神がイスラエル民族に与え、イエス・キリストが誕生したとされるパレスチナの地を指す(出典:ウィキペディア)

 

そこでダウティは古代ナバテア文明(Nabataean Civilization)によって残された古文書と碑文を観察・研究した。この観察・研究はエルネスト・ルナン(Ernest Renan)によって出版されている。

 

(注)ジョゼフ・エルネスト・ルナン(Joseph Ernest Renan) ルナン(1823228 - 18921012日)はフランスの宗教史家、思想家。近代合理主義的な観点によって書かれたイエス・キリストの伝記『イエス伝』の著者。(出典:ウィキペディア)

 

更にタイマ(Tayma)、ハーイル(Ha’il)、ウナイザー(Unayzah)、ターイフ(at-Ta’if)およびジッダ(Jidda)を含む旅の後半ではダウティは地理学上(Geographical)、地質学上(Geological)そして人類原語学上(Anthropological)の最も重要な観察を行っていた。

 


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ダウティは自分が経験した1876年から1878年までのこの旅を執筆し、1888年に「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta)」と題して出版した。この著書の中でダウティは情報を記録する事よりは散文としての不朽の業績を生み出す事の方に関心を持っていた。それを当てはめた純粋英語でのエリザベス一世(Elizabethan)時代の文体はダウティの遠く離れて孤独な放浪の感じを伝えるのには成功したが、この本は出版された直後には殆ど関心を持たれず、注目もされなかった。

 

その後、アラビア沙漠での旅と発見の膨大な記録であるこの著書が野心的旅行記の傑作であるばかりでは無く、ダウティ自身もアラビアを訪問したすべての西洋旅行家で最も傑出した人物の一人であるとの評価を次第に確立した。トーマス エドワード ロレンス(Thomas Edward Lawrence, 1888 – 1935)等もこの本を再発見し、自分自身を高く評価させる為にも1920年代に再版させた。それ以来、何度か再出版されている。

 

チャールズ モンタギュー ダウティ(Charles Montague Doughty)について

 

 

英国人の詩人で、作家で旅行家であるダウティ(Doughty, 1843 - 1926)はイングランド東部サフォーク州(Suffolk)サクスムダム(Saxmundham)で生まれ、私立学校とポーツマス(Portsmouth)にある英国海軍の為の学校で教育を受けた。ロンドン大学(University of London)のキングス カレッジ ロンドン(Kings College London)で学び、1864年にケンブリッジ大学(University of Cambridge)ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ(Gonville and Caius College)を卒業した。ダウティは1888年に書いた旅行記「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta)」で著名になった。この本は1611年刊行の欽定訳聖書(きんていやくせいしょ)(King James Bible)に倣った過度に修飾し気取った様式で書かれてはいるが、文字通りの成り行きや風変わりな創意で絶えず驚かされる。

 

この本を称讃する作家には英国小説家ヘンリー グリーン(Henry Green, 1905 -1973)が居り、グリーンのダウティに関するエッセイ「弁明(Apologia)」はその蒐集「生存(Surviving」に再版されている。1945年に出版し、タイム誌の「1923年から2005年までの英文学100(TIME 100 Best English-language Novels from 1923 to 2005)」に選ばれたグリーンの代表作「愛(Loving)」はダウティの作風の影響をある程度は受けていると思われる。「批判する人達に対して、ダウティは傲慢で、おもしろみがなく、独善的で強情であったが、ダウティは彼らの誰よりも長生きし、名作を執筆した著者であった」とイエール大学とコロンビア大学を卒業し研究を続けるアンソニー T. サリバン(Anthony T. Sullivan)は言う。

 

ダウティは男の中でも特に頑固であった。その頑固さがダウティを「当時は未知であったアラビアから遠ざかる方が良い」のを知っていた周囲の賢明な忠告を無視させてしまった。ダウティは忠告を聞き入れなかった事に対してものすごく辛い代償を払っている。それは1876年から1878年までの2年間に渡る激しい暑さ、窮乏、渇き、そして唯一の保証である部族への所属無しでの他国者として絶え間ない死の脅威をて受けた事であった。

 

旅立つやいなや、好意的な同伴者はダウティにムスリムをよそおってキリスト教信仰を隠すように警告した。ダウティのヴィクトリア朝風の原則(Victorian Principles)はこの忠告に背き、ダウティが「自分の信じて固執しているものは宗教を超越している」と宣言する僅かな機会でさえも失った。再び、ダウティは高い代償を支払った。ダウティは虐待され、つばを吐きかけられ、打ちのめされ、そして何度かは自分の信じる異国の信仰を持つ為に殺されかけ、危うく難を逃れていた。

 

奇跡的に沙漠から生きて戻ったが、ダウティは友人達に愛想をつかされ、その上出版社には全く関心を持たれなかった。この為、全ての助言に逆らっても自分の経験をチョーサー風(Chaucerian)とスペンサー流(Spenserian English)を人為的に混ぜ合わせた英語で記録しようと決心出来た。その結果として自分自身も含めて誰もが驚いたのはダウティは「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta)」と云う名作を生み出した事である。

 

(注)ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer, 1343 - 1400): イングランドの詩人である。当時の教会用語であったラテン語、当時イングランドの支配者であったノルマン人貴族の言葉であったフランス語を使わず、世俗の言葉である中英語を使って物語を執筆した最初の文人とも考えられている。(出典:ウィキペディア)

 

(注)エドマンド・スペンサー(Edmund Spenser, 1552 - 1599): イングランドの詩人で、エリザベス1(Elizabeth I, 1533 - 1603)の時代に活躍した。仕立て職人ジョン・スペンサー(John Spenser)を父に生まれる。アイルランド(Ireland)に赴任していた時に反イングランド暴動に遭遇した。『妖精の女王(Faerie Queene)』が最も有名な作品である。スペンサーはスペンサー詩体(スペンサー詩形、スペンサー連、Spenserian Stanza)と呼ばれる特徴的な韻文形式を上記『妖精の女王』を含むいくつかの作品で用いた。スタンザ(Stanza)の主な韻律は弱強五歩格で、押韻構成は「a b a b b c b c c [c]」である。最後の行は6韻脚ないしは強勢を持つ六歩格である。このような行はアレクサンドラン(Alexandrine line)として知られている。スペンサー風ソネット(Spenserian Sonnet)は、ペトラルカ風(Petrarca)ソネット(Sonnetee)とシェイクスピア風ソネット(Shakespeare's Sonnets)(シェークスピア風十四行詩)の両方の要素を融合したものを基にしたソネット(Sonnetee)の形式である。押韻構成は「abab bcbc cdcd ee」。シェイクスピア風ソネットとは、シェイクスピアによってはじめられた3つの四行連と1つの二行連で、感覚的にはスペンサー風ソネット(Spenserian Sonnet)はそれに似ている。しかし、はじめの四行連の中ではじめられた主張や論点の後に結論が来るという点ではペトラルカ風ソネット(Petrarca Sonnet)により似ている。(出典:ウィキペディア)

 

その著書が最初に現れた時にはダウティは単に引っ込みがちで、礼儀正しい、科学に傾倒した孤独な学者であった。そうではあったが、傲慢で、おもしろみのなく、独善的な男で、常に強情な性格でもあった。「アラビア沙漠の旅行」がアラビアの伝統的の記述の為ではなく、ダウティが生きていた80年の内の激しかった2年間の記述の為であったならば、ダウティは世に知られないままで死んでいただろう。

 

ダウティは保守的なサフォーク州(Suffolk)の国教会信徒の名も無い家に生まれた。ダウティはその狭い社会から出て、海軍で経験を積んで自分を広げようと努力していたが、言語障害がその大望をくじかせた。この若者はその代りにケンブリッジ大学(Cambridge)の医学に伝統と高い評判のあるキーズ・カレッジ(Caius College)1861年に入学した。学生時代のダウティは学問でも外見でも目立たなかった。普通の青ざめたアングロサクソン(Anglo-Saxon)の顔で、どちらかといえば大柄で大きな唇と深くくぼんだ目をして、今日のケンブリッジ大学では再び普及している長さの髪を真ん中から少し外れて分けていた。当時の教師の一人はダウティを憶えており、「ダウティは非常にだらしのない身なりをしていた。もし、襟カラーを付ける様に言えば、怒って衣装箱ごと足元に投げつけただろう」と言う。

 

ダウティは間も無く地質学と或るエッセイ(Essay)に少なからぬ関心を表した。そのエッセイとはその年のノルウェー(Norway)のヨステダルス ブレイ氷河(Jostedals-Brae Glaciers)の探検についての記述で、ダウティに専門家としての認識を持たせ、調査への一生を通じての興味を覚醒させたとされている。しかし、その興味でさえ、ダウティがケンブリッジ大学を卒業した後、オックスフォード大学(Oxford)のボードリーアン図書館(Bodleian Library)での初期の英文学の研究によって陰ってしまった。ダウティは後に「60年近くも自分は高潔なチョーサー(Chaucer, c. 1343 - 1400)と愛すべきスペンサー(Spenser, c. 1552 1599)の伝統に捕らわれていた」と告白している。

 

ダウティはデジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus, 1466/1469 – 1536) の研究の為にオランダ(Holland)に向かった1870年にチョーサーとスペンサーへの愛を暫定的に捨て去った。そこでの知的な放浪への衝動がダウティを捕らえ、次の4年間、ダウティはギターの代わりにザック一杯の本を肩に背負った以外はヒッピーの様にベルギー(Belgium)、イタリア(Italy)、シチリア(Sicily)、マルタ(Malta)、スペイン(Spain)、チュニジア(Tunisia)およびギリシア(Greece)を放浪して周った。1874年に特に理由も無く、ダウティはパレスティア(Palestine)へ向かう船に乗り、徒歩でレバノン(Lebanon)を通ってエジプト(Egypt)に着いた。それから一人の同伴者と一頭の駱駝と共に乾燥したシナイ半島(Sinai Peninsula)を越えてアカバ(Aqaba)に向かった。

 

この時のダウティは漠然と旅へと駆り立てられる以外は特に旅の計画を持っていなかった。後に、ヨルダン(Jordan)南部の都市マアーン(Ma'an)に着くまでの旅を「自分はペトラ(Petra)*を見る以外には何も目的が無く、アラビア語はほとんど話せず、これらの国々の歴史を勉強した事も無い」と記述している。そして、感情を交えないダウティでさえ、自分と同じ英国人の多くを打ち倒した東洋の不思議な魅惑によってすでに影響を受けてしまっていた。シナイ半島(Sinai)に関してダウティは「おそらくは月以外ではどこにも世の輪郭がこの様にむき出しに曝されている場所はない」と記述し、そしてノルウェーの荒涼たるぎざぎざの隆起を思い出しながら高く聳えた氷山への自分の恐怖とハッキリした塵や風で磨かれた石や岩の非人間的な静かな孤独との相似を書き留めていた。

 

ダウティは最初に「サーレーの町(City of Saleh or City of Salih)」を意味するマダイン サーレー(Mada’in Saleh)について聞いていたのは、現在のヨルダン(Jordan)南西部の町マアーン(Ma’an)から古代の都ペトラ(Petra)への途中の事であった。ペトラはナバテア人(Nabataean)がその山塞(Mountain Fastness)を赤い岩を刻んで建設し、その町はメッカ(Mecca)への途中の真南の沙漠の荒地にあり、「大きな墓が山の斜面に切り込まれている」と言われていた。巨大で堂々とした入り口、山肌に刻まれた知られていない言語で書かれたあいまいな碑文、広い空の部屋等、これら無人の街の幾つかの奇妙さについての旅の同行者達の話で、ダウティは突然に「この忘れられた町の神秘について記録する最初の人間になりたい」との強い衝動に駆られた。

 

(注)マダイン サーレー(Mada’in Saleh) マダイン・サーレハは現サウジアラビア領内に存在していた古代都市である。マダイン・サーレハは「サーリフ(Saleh)の町」を意味し、アル ヒジュル(Al-Hijr, 「岩だらけの場所」)とも呼ばれた。ヒジャーズ北部に位置し、赤い崖のあるワジの集落‘ウラ(Al-`Ula)からは約 22 km 離れている。古代には、この都市にはサムード人(Thamudis)やナバテア人が住んでおり、ヘグラ(Hegra)として知られた。考古遺跡群はナバテア人たちが暮らしていた紀元前1世紀から紀元1世紀頃のものが中心で、とくに装飾の施された墓石群が特徴的である。このほか、それ以前に遡る碑文も発見されている。マダイン・サーレハはナバテア人の考古遺跡としては、ヨルダンのペトラに次ぐものである。2008年の第32回世界遺産委員会で世界遺産リストへの登録が認められた。サウジアラビアでは初の世界遺産である。(出典:ウィキペディア)なお、本文中での日本語への転写は私や私の周囲がサウジ在住時代に一般的に使っていた「マダイン サーレー」とした。

 

ダウティは王立地理学協会(Royal Geographical Society)に援助を求める手紙を書き、直ちに返事を受け取ろうとウィーン(Vienna)に急いだが、返事は全く来なかった。ダウティはダマスカス(Damascus)に戻り、8ヶ月間、そこで集中的にアラビア語を勉強した。それから、ダマスカス駐在の英国領事による冒険を思いとどまらせようとの試みを拒否して、ダウティはメッカに向かう隊商と共に南に向けて出発した。公然とムスリム巡礼(Muslim Pilgrims)の中の一人のキリスト教徒として自分自身をカリル(Khalil)と呼び、ダウティは6,000名の男達と12,000頭を超える駱駝からなるこの隊商によるマダイン サーレー(Mada’in Saleh)に着くまでの保護を期待していた。異教徒が入り込むのを禁止し、犯すと殺されるメディーナ(Medina)とメッカ(Mecca)付近に着く手前にマダイン・サーレーがあった。これは187611月の事だった。

 

もしダウティのアラビアに入った目的は基本的に考古学だとすると、ダウティの逗留が長くなった理由は沙漠その物の持つ神秘的な雰囲気もあるが、現実的には厳然たる必要性に起因していた。その必要性とは「無一文のキリスト教徒であるダウティが或る地点から次の地点までの旅を猜疑心の強いムスリムの当てに成らない好意を頼りにして乞わなければ成らなかった」と云う現実であった。

 

この環境に自分自身を適応させる為のダウティの不撓不屈の反抗的な態度の結果として、ダウティは耐え抜きそして真に全ての太古の土地の厳しさを見つけ出す能力を身に付けた。それはダウティがヨハン ブルクハルト(Johann Burckhardt, 1784 - 1817)**やリチャード バートン卿(Sir Richard Burton, 1821/20 - 1890)**の様な旅行者達と共有する性格であった。さらにダウティだけが哲学的意義を持つ経験をした。よかれあしかれ、多くの西洋人が何年もの間、ダウティの偉大な作品の堂々としたチョーサー風(Chaucerian)のページを通じてアラブ化した東洋を見ていた。

 

アンマン(Amman)から巡礼の行列(Pilgrins’ Procession)はヨルダンのカラク(Kerak)、ショウバク(Shaubak)およびマアーン(Ma'an)を通って広大なアラビア台地(Arabia Plateau)の突端に向けて動き出した。「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta)」によって忘れられなくなった土地ついて「夏の世の終わりに太陽が敵対的な炎の王冠の様に荒涼とした砂岩の山々からなる巨大な隠れ場から立ち上がる。沙漠の夜明けは少しづつではなく、一時間の内に真昼になってしまう。荒廃した景色の上に暴君の様に入ってきた太陽は我々に猛火の光線の苦痛を投げかけ、夕暮れまでのはるか長い間、容赦する事は無い。墓場は頭の王冠の目のくらむ様な暑さである。日差しの強い自然の生気の無さの中で両耳はちらつく強烈な光でヒリヒリし、それは微妙なパチパチ音の様に感じる。ぐずぐずと長い日が夕暮れまで続く。太陽で疲れ果てた牧童達は強烈な光から逃れた歓喜と休息の最初の甘味を味わう為にたそがれどきには蓄牛と再び戻ってくる。一日が終わり、そこにはもっとも純粋な山の空気の夜ごとの新鮮さが漂ってくる。月は赤っぽく、荘厳な暗い山から力強いのろしの様に上がってくる。翌朝もこの日の様だろうし、日中は夏の荒野の太陽の中に瀕死の状態で浸かっている」とダウティは時折の当てにならない穏やかさにもかかわらず、沙漠の常習的な様相は仮借の無い厳しさとかなり正確に説明している。

 

「高い場所ではいつも熔岩地帯(Harra)*を見渡した。それは鉄の様な荒地で人跡稀な黒さで火山性物質の生物のすんでいない厄介もので、形の無い物質の焼けただれ、錆ついた嫌悪感のある荒野である。孤立した生命の存在も感じられず、ここに進入した熱の圧迫で死んだ土地になっている。もし死んでなければ自分の骨の絶え間ない疲労以外に家に持ち帰る物は無い。荒野は日で照らされた渇きの前にかすんでいた。我々は炎を呼吸している様に見えた。私は呼吸が止まり、食べることも出来なかったので、終日あえぎながら、何とか生き延びていた」等と記述し、ダウティは読者が沙漠の旅人を絶え間なく苦しめる多くの疲労と灼熱の暑さを忘れさせる事は無かった。

 

「それでも歴史が始り人類が世界の隅々まで広がったのはここ、この地上の灼熱地獄(Furnace)からであった」とダウティは主張した。それは一神教が根付き、そしてベドウインの習慣を観察していると族長時代に引き戻される様に感じるアラビアであった。アラビアの物理的な不毛と文化的宗教的伝統の結実の対照は「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta)」の変わらない主題であった。

 

(注)族長時代(Age of Patriarchs) 旧約聖書における時代区分を表すユダヤ教、及びキリスト教の概念で、アブラハムの誕生(ユダヤ暦1948/西暦B.C1812年)から出エジプト(ユダヤ暦2448/西暦B.C1312年)までの期間を指している。(出典:ウィキペディア)

 

後のアラビア旅行者リチャード バートン卿(Sir Richard Burton, 1821/20 - 1890)**はダウティの自分にたいするアラビア人の乱暴な取り扱いへのとどまることのない不平を軽蔑するだけの豊富な経験を持っていた。バートン卿は「ダウティは自分のホストの宗教や習慣を尊重しなければならないのに自分の命に対する絶え間ない恐怖にはまってしまっていた」と記している。いつもよりも勇気を出してダウティは巡礼の一団が仲間の一人を殴っているのを止めた。後になってその男は沙漠ではもっとも重大な犯罪である盗みを犯した事が分かった。似たような気配りの無さでダウティは「私は多くの地方を長年に渡って放浪して来て、そしてイノシイとはあなた方の芸術の様に私は何処にも見出せなかった」と公にあるシャイク(Shaikh)を激しく非難した。確かにダウティは自分の身分が客人でしかない事を知らなければ成らなかった。この最悪の無礼なふるまいを表明する為にダウティを殺そうとした試みから救ったのが客人の身分でもあった。そしてそれに続いてダウティは自分には完全に欠如したユーモア、雅量、もてなし、尊厳等で最高の資質を持つ人物が同伴している事を得意そうに話した。「太陽が自分をアラブの一人にしたが、決して自分を東洋の特異性にゆがめないで欲しい」とダウティはもったいぶって言った。思うにダウティはアラブの心を決して理解出来ないだろう。

 

ダウティであろうとなかろうと信仰については余り口にしてはならない。ダウティは高教会派キリスト教(High Church Christianity)がイスラムより優れていると信じており、それがダウティのモスリムのホスト達との問題の大半を作り出していた。正義に対するダウティの自ら選んだ根拠で年配の校長が手に負えない生徒で一杯の教室を観察するかの様に自分の同伴者を調べた。ダウティは「アラビアが大昔に人類に対する特有の遺産を作り出し、そしてそれは自分の時代には歴史的に時代錯誤であった」のを疑わなかった。ダウティが東洋を理解する事はなかったのは実際には理解しようと思って無かったのが主な理由であった。

 

(注) 高教会派(High Church) 英国教会において、カトリック教会との歴史的連続性、主教職とサクラメント(洗礼と正餐)の尊重等を強く主張する一派で、対抗する派には福音を強調する低教会派(Low Church)、英国教内の自由派である広教会派(Broad Church)、高教会派(High Church)の原則を回復しようとするオックスフォード運動(Oxford Movement)等がある。

 

東洋の観念による混成のおそれに対して警戒を怠らないでいた努力が1878年に英国に戻った後でダウティが訴えた精神的な虚脱の原因であったようだ。ダウティが知られざるヒジャーズ(Hijaz)で生き残った雄大な物語の記録であるよりも正しい英散文の不朽の業績である様に願っていた「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta)」での自分の経験から自分自身を取り除く事で自分の強さを取り戻した。「『アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta)』を書く中で自分の主な意図は英言語の頽廃に屈せずにチョーサー(Chaucer)やスペンサー(Spenser)の古い伝統を続ける高邁な努力をする事であり、聖書的な関心事である人々の中を個人的にさまよう事を述べる事ではない。従って、自分の作品はオリエント研究家達に対しては単に真実の陳述であり、それが今のところ文学に対する自分の生涯の貢献だろう」とダウティは後に述べている。

 

ダウティが自分の原稿の写しを送った殆どの出版者達には「意識して模倣しているダウティの様式はあまりにも異国風(exotic)である」と思われた様だ。善意の友達は「ダウティの本はダウティが古めかしい構文を現在風にするだけで即時に成功するだろう」とダウティを説得しようとした。ダウティは豪胆に「構文は変えない。それは自分の考えの手段すなわち母国語を丁寧に読みやすく分かりやすく保つ為に適正に気品を持って使うのは母国を愛するもの皆の特権である。拡大解釈するとそれは地域社会にも当てはまる」と主張した。ダウティの異議申したての次の文章が一層長く、一層中世的であるのを明らかにおそれてケンブリッジ大学出版部(Canmbridge University Press)はくじけ、1888年に「アラビア沙漠(Arabia Deserta)」を出版した。

 

この本への受け止め方は、感激に対するの英国の標準では「恍惚となっている」と状態であった。オリエント研究家(Orientalist)のウィルフリッド S. ブラント(Wilfrid S. Blunt, 1840 - 1922)は「ダウティは間違いなくこの二世紀の中での最高の散文を書いた」と言い、「自分は19世紀の他のどの本よりもむしろ『アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta)』について述べているだろう」と付け加えた。この様なコメントはどの位作者が心温まらせられる事か。作者が自分の文体をそれを運んでいる媒介よりもはるかに評価しているのは明らかである。「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta)」は直ぐに英国最高の全寮制私立中学(British Public Schools)の教育課程(Curriculum)にその居場所を見つけた。ダウティはこれ以上は何も要求する事は出来なかっただろう。

 

ダウティがそこで執筆を止めたら一冊の本しか書いていない全ての男と同様に後代の人々によってもっと心から愛情を込めて憶えられていただろう。しかしながら一冊の本しか書いていない全ての男と同様にダウティはそうしなかった。文学的な顕著な成功に続いて、ダウティは自分の最初の愛と詩に戻り、そしてもう一度「1906年に最高潮に達した韻文の途方も無くうんざりするような本の長い一続きを著作する事では古い愛の死んだ燃えさしは復活できない」のを証明した。この作品がダウティが自分の傑作(chef d'oeuvre)と考えている6巻から成る特別に眠くなる様な大作の詩である「英国の夜明け(The Dawn in Britain)」であり、文明の種のアラビアでの始りからローマを通り、最終的に北ヨーロッパと英国で花開いた跡を辿るのを目的にしていた。

 

ダウティの1908年の著作「アダム キャスト フォース(Adam Cast Forth)」は短く、ダウティ自身が蒙った経験に関連していたので、失敗作ではなかった。この著書はアラビアの太陽と風に対抗して生き延びる為に苦闘した最初の男の話を物語っている。恐怖、暗い驚愕、脱出できなく果てしなく続くおぞましい岩の全て!ダウティは自分のかってのムスリムの友達を彼等の道の教示上の誤りで納得させたと同じ様に自分自身と家族の為に備えるのに失敗したのでこの様な執筆に費やした窮乏の年々は果てしなく、疑いも無く、おぞましかった。それでもダウティは韻文を書く仕事を頑固に続けていた。ダウティがそれにささげた60年近い年月を考えるとダウティは神の力で霊感を与えられていると考えた様だ。

 

ダウティの人生の終焉に政府の指導者は文学に対するその貢献を認めて、年間150ポウンドの政府年金を授与した。それは更に10年、20年を飢えに苦しんでいたダウティを養うには十分であった。幸運なことには、ダウティはいつもそうであったが、若い従兄弟がそれから間も無く2,000ポンドの年金を残して死に、そしてそれはダウティにとって政府の実効性の中でわずらわしい賞金を返却するのが楽しいとの印象を持ったのだろう。ダウティはそれを僅か2年間ではあったが、謳歌し、1926120日ケント州(Kent)シシングハースト(Sissinghurst)で死亡した。それはダウティが称えていた全くの沙漠の様に頑固で、孤独であった。

 

ダウティの著書

 

アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta, 1888)

英国の夜明け(The Dawn in Britain, 1906)

アダム キャスト フォース(Adam Cast Forth, 1908)

(The Cliffs, 1909)

(The Clouds, 1912)

巨人(The Titans, 1916)

マンスール(Mansoul or The Riddle of the World, 1920)

 

出典: この文書は「頑固なダウティ(The Obstinate Mr. Doughty)」(サウジアラムコ ワールド(Saudi Aramco World)19697 - 8月号)、ブリタニカ百科事典(Encyclopedia Britannica)およびWikipediaの内容を抄訳し、まとめたものである。

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